とある日本語教師の海外遍歴記

2年ごとくらいにいろんな国で働く生活を志す人の旅行記

なぜ私は『言語表現法講義』などという本で号泣しているのか

あわよくばアフィリエイト収入を、などと考えてブログを始めたというのが本音である。
テーマを絞り、極力毎日書き、アドセンスポリシーに抵触しかねない表現は避け、つまりは斜め読みしたハウツーブログに従って旅行記を書き始めた。

そんなとき、たまたま寮の本棚で見つけて読んだのがこれである。

 

その名の通り、ある大学での講義をまとめた本。正しい論文の書き方とか、論理展開の仕方とか、そんなものだと思って読み始めた。

違った。

全9回の講義のうち、第1回目の最後で泣いた。小学校の文集から抜粋された文章がみずみずしくて、賢くて、よくある大人受けを知っている賢さではなくまっすぐに知的で、なるほど「いい文章」っていうものはあるんだなあと感心した矢先、その書き手が誰であったかを明かされて、泣いた。まっすぐな知性と奔放な好奇心が、暗黙の期待と見えざる圧力に追い詰められていく。辛い。辛すぎてしばらく泣いた。我ながら近年まれに見る予想外の涙だった。

しかしその先も、結局随所で泣くことになった。実際に受講していなくて良かったというほかない。

 

わたしは小さいころ、書くことが好きなはずだった。
中学校、毎朝の小テストを5分で終えて、残り15分用紙の裏に小説を書いていた。絵を描いては詩を書いて、詩を書いては絵を添えた。オタクで厨二で腐女子だったといえばまあそうなのだけど、ただ書くことは楽しかった。言葉で遊ぶのが好きだった。日本語は美しいと思っていた。

しかしいつからかどこからか、「それになんの実益があるの?」という問いが植え付けられた。あらゆる選択にこの問いが付きまとって、絵も小説も書かなくなった。

 

結局10年も捉われたのち、それはわたしとは趣味の合わない他人の、単なる一つの尺度に過ぎないと気付いたから会社をやめてここへ来たはずなのに、やっぱりどうも偏向があるんだなあ。

情報もアフィリエイトも実益であり、重要で魅力的なものだけど、もっと得意な人が山ほどいるだろう。わたしが挑むところではない。せっかく5年ぶりにブログを再開したのだから、中途半端にハウツーを気にして言葉を選ぶのはやめよう。

 

と言うわけで、このブログは一見ますます方向性を見失っていくわけだけども、それでいい。変な方向に突っ走る前にこの本を読めてよかった。

…ただ、そうして書いたのが今日のこの文章かいというツッコミはできれば受けたくないものだ、なんて締めようとすると、保身の蛇足だとか添削されるのだろうか。恩師と呼べる指導者に出会いたかった。